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素見歓迎  *ハ リ ミ セ*

自作小説発表ブログ
月別アーカイブ  [ 2011年08月 ] 

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父の幽霊

 父の納骨が近付き、母から頻繁に電話がかかるようになった。
ある日の電話で母は珍しくオカルトめいた事を口にした。
「お父さんがね、その辺に居るのよ」
やれやれ、とうとうボケてきたか、と僕は思った。
オカルトめいた事を口にするから、そう思ったわけではない。
こんな時期にそんなことを言い出すのが、僕からの『もうすぐお別れだから、お父さんが挨拶に来てるんだよ』的な土着信仰的慰めの言葉を期待しての事かと思い、暗い思いにとらわれたのだ。

 母は、決して精神的に強い方ではない。
父の病気が重くなった時には、毎日のように僕に電話をよこしては、阪大病院で開発された新療法の臨床試験に応募できないか、知り合いの医師の紹介状を持って頼んでくれだとか、お前もネットで新療法を探してくれだとか言ってきたものだ。
だが、学者の家に育った母は、どんなに取り乱した時でも、お参りだとかお守りだとか、宗教めいた事に関心を向けたことはなかった。
その母が、と思ったのだ。

 母は続けて言った。
「ふとした時にね、ソファの上とか、コタツの横に居るの。何も言わないんだけどね。で、そっちに目を向けると居なくなるの」
僕は少しほっとした。
母の言葉には情緒的文脈が無い。
これは、ただ実際に父が見える、という事を伝えたいだけのようだ。
だとしたら、合理的な説明も考えられる。
「母さんさ、緑内障で周辺視野の網膜が効かないでしょう?」
「うん」
「だから、暇になった脳の視覚領域が、その空白を見たいもので埋めちゃうんじゃないかな」
「ああ、そうねえ、そういえば見えないはずの辺りに見えてる気がするわ」

 幻肢痛、という事がある。
切断して失った四肢の先が痛む現象だ。
局部麻酔では抑えられない事から、入力元を失った脳の感覚野が間違って発生させる痛みと考えられている。
そんな極端な例でなくても、脳にはもともと情報を補完する働きがある。
例えば、2冊の本が半ば重なって置いてあるようなとき、下の本の全体像が見えていなくても、我々はそこに“長方形の”本を見ていると自然に思う。
扉の陰から半身を覗かせている人を見ても、半分だけの人間がいるとは思わない。
きっと母の脳の視覚領域は、あるいは視覚を意識化する前頭葉のどこかは、その入力の無い空白の領域に、40年以上連れ添った『居るはずの』人影を描いたのだろう。

 説明すると、母は納得した。

 脳がその人の存在を前提として働くようになってしまう事は、必ずしも愛情とは係わりない事かもしれない。
常に同じ騒音の在る所で暮らす人が、その音を意識下に締め出すことと大差ない、脳の自然な働きなのかもしれない。
でも僕はそこに、動物的な、何の計算もない他者への愛着のありようを感じた。
霊の存在も、魂の実在も信じていない僕だが、「霊」や「幽霊」というものが、今の母のように「居ないけれど、居るとしか感じられない」死者を感受することの呼び名なのだとしたら、そこには「勘違い」と笑えない切なさがある、とも思った。

 きっと宗教とは、こうした喪失に伴う感覚と現実のズレを吸収するために考え出された優しい嘘の体系なのだろう。
法要、納骨と、既に無い者をそこに在るかのように扱う儀式の数々を経れば、母は父の不在の不安からやがて解放されるのだろう。

 僕も、脳がその不在を拒むほど近しい人を失うときには、そこに見えるものを彼女の「霊」だと、変容はしても失われぬ彼女の「魂」だと、信じる事が出来るのだろうか。
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