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素見歓迎  *ハ リ ミ セ*

自作小説発表ブログ

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スウィッチ!

 坂井夫妻の元に『月刊テニス』記者が訪れたのは、坂井順二が日本オープン優勝を決めた翌々日の事だった。
挨拶が済み、応接室のソファに腰を下ろすと、記者は記事のゲラ刷りらしき数枚の紙を2人に渡した。
「まず、これを読んでください」


 『テニス界の超新星は18歳のスウィッチプレイヤー』

 《2つのフォアを持つ少年》
 今年、全日本オープンを制したのはたのは、若干18歳の新星、坂井順二であった。
彼は、テニス界では珍しい本格的スウィッチプレイヤーである。
その独特のプレースタイルもあって既に海外での評価は高い。
ライジングを叩き、重いフラットボールを返す右と、精密機械のようなボールコントロールで相手の逆をつく左は、それぞれ"ブーミングライト"、"スナイピングレフト"の異名を持つ。
今大会でも、個性の違う二つのフォアを使いこなし、圧倒的な強さで優勝を決めた坂井だが、彼のこれまでのテニス人生は、決して平坦なものではなかった。

 7歳から、双子の兄、順一と共にラケットを握り、2004年全日本ジュニアでは兄に次ぐ準優勝を勝ち取るなど、将来を有望視されていた坂井選手。
しかし、同年冬、12歳の時に思いがけぬアクシデントが彼を襲う。
兄弟の乗るマイクロバスが、テニススクールに向かう途中にトラックと衝突する大事故を起こしたのだ。
この事故で彼は、兄、順一を失い、自身も左腕をほとんど切断する大けがを負った。
手術には成功したが、テニスプレイヤーとしての将来は絶たれたかに思われた。
しかし、彼はその後拠点をアメリカに移し、リハビリに専念、ついに去年、選手として復帰を果たしたのだ。

 トーナメントに帰ってきた時、リハビリの一環として練習し続けた、左手一本でのフォアハンドが、彼の新たな武器となっていた。
もともとハードヒッターとして知られた右に加え、絶妙なコントロールの左。
復活後の、新たな武器を手に入れた彼の快進撃は、皆様もご存知の通りである。
今日は、全日本大会を終えた彼に、私、佐藤がじっくりとお話を伺った。

 《左へのこだわり》
「お疲れさま。そして、優勝おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「今日は、一躍スターになった坂井君にその強さの秘密を伺いに来ました」
「あはは、スターですか(笑)」
「そうですよ。明日から生活が変わりますよ。取材攻勢で」
「やだなあ、そういうの」
「そうなんですか、さっそくスミマセン(笑)」
坂井選手は、見た目通りの爽やかな青年で、インタビューは和やかな雰囲気で始まった。
「まずお聞きしたいのは、坂井選手の左へのこだわりについてなんですけど。
今大会でも何度か見られましたが、決勝戦の第4セット、2度目のブレイクポイントで、回り込んで左のフォアを打ちましたね?」
「はい」
「あんな風に、試合の流れを変える重要なポイントで左をよく使ってますよね。
あと、試合後、勝った時は必ず左手にこう、チュッと、キスしていますが」
「よく見てますね(笑)」
「坂井選手の、その、左手へのこだわりの理由をお聞きしたいんです」
「はい、そうですね・・・」
坂井選手は、何か考えるように少し顔を伏せて、黙り込んだ。
私は、思い切って踏み込んだ質問を投げてみた。
「亡くなったお兄さん、順一さんは左利きでしたよね?
繊細なボールタッチとコントロールの良さが非常に評価されていた選手とお聞きしたんですけど、そのあたり、お兄さんへの想いと何か関係があるんでしょうか?」
「よく調べてきてますね」
坂井選手はそう言って笑うと、意を決したように顔を上げた。
そして、思いがけないことを口にしたのである。

 《二人のテニス》
「実は、僕の左手は無くなったんです」
「あ、それはあの、事故のことですよね」
「ええ、でも、言われてる『麻痺していたけど、リハビリして戻った』って事じゃなく。
あの事故で、僕は左手を切断してるんです」
「えっ?それはどういうこと?」
「もう、僕の腕はぐちゃぐちゃになってて、それで、左腕だけは無事だった兄の腕を、移植したんです」
いいながら、坂井選手は腕の傷を見せるようにシャツの袖をめくった。
肩のすぐ下辺りに、腕を一周するような縫合線が、確かに見える。
「ええっ!それは本当ですか?」
あまりのことに私は大きな声を上げてしまった。
「もちろん、僕も後で話に聞いただけですけど。(笑)
事故の後2日間は意識不明でしたので」
もうすっかり乗り越えたのであろう、私の動揺をよそに、坂井選手はあくまで淡々と話す。
「手術が終わって何週間も経ったのに左手に感覚がなくって、もう駄目なんだろうな、って(思って)。
その時に、父が打ち明けてくれたんです」
「驚いたでしょうね」
「驚くっていうか、『じゃあ、がんばらなきゃ』って思いました。
父が、『お兄ちゃんにもう一度テニスをさせてやれ』とか言うんですよ。(笑)
もう、頑張るしかないじゃないですか。
それに、お兄ちゃんと僕なら、絶対通じない訳がない、って。
僕らよく気が合ったんですよ。同じ物食べたいと思ってたり、同じ子を好きになったり。(笑)
だから、お兄ちゃんの腕となら必ず神経は繋がる、って確信しました」
「自分の腕だと諦めかけてたのに、お兄ちゃんのなら大丈夫、と?(笑)」
「お兄ちゃんは強かったですから、僕と違って」
「それで、実際動くようになった訳ですもんね」
「動くようにはなりました。でも次は、あのお兄ちゃんのボールコントロールを再現しないと、って。
そっちの方が辛かったです。お兄ちゃんのフォームを思い出して、死ぬ程練習しました」
「その成果がスナイピングレフトと言われる、左手の精確なショットな訳ですね」
「そう言っていただけると、ほんとに嬉しいです。
お兄ちゃんの左手に、恥をかかせていないぞ、って思えて」
「重要なシーンで左を使うことが多いのも?」
「お兄ちゃんは僕と違って、いつも冷静で心が強かったですから。
だから、崩れそうになった時はつい頼っちゃうんです(笑)」
私には、彼の強さの秘密が分かった気がした。
「じゃあ、この優勝カップはお兄ちゃんのでもある訳ですね」
そう水を向けると、坂井選手の目に、光るものがみえた。
「そうです。だから、そろそろちゃんとお話して、皆さんにもこの腕のことを知って欲しかった。
お兄ちゃんの事、知って欲しかったっていうのはあります。
・・・やだなあ、卑怯な質問ですよ、そういうの」
照れながら涙を拭く顔は、やはり18歳の若者だった。
私は、坂井選手が世界に通用すると確信した。
なにしろ、彼と対戦する者は、日本最高レベルのプレイヤー二人を相手にすることになるのだから。
 (了)


 両親が記事を読み終わったのを見計らって、記者が口を開く。
「ほぼ、順二君に聞いたことをそのまま記事にしています。
ですが、デスクから『これが本当なら、医学的にも奇跡に近い事例なんだから、執刀医にも話を聞いて来い。裏をとって来い』と言われまして。
それでまず、ご両親にお話を伺おうと、お時間を割いて頂きました」
記者の言葉に頷くと、父は妻の顔を見た。
彼女は両手に顔を埋めたまま、時折嗚咽を漏らすばかりで、とても話ができる様子ではない。
記者に向き直り、父が言った。
「あれは、ウソなんです」

 「手術は成功しましたが、順二は感覚の戻らない左手に絶望していました。
リハビリを始めるように勧めても、なんというか・・・魂が抜けたようになっていて。
その上、兄が死んだことをそろそろ告げねばならない時期にも来てました。
テニスが奪われ、一番好きな兄が奪われたと知ったら、もうあいつは立ち直れないんじゃないか、私はそう思いました。
それでとっさに、この腕はお兄ちゃんに貰った腕なんだ、と、言ってしまったんです。
古傷とか、爪の形とか、よく調べればあの子にも嘘だと分かったと思うんですよ。
でも、やはりあの子も心の支えが欲しかったんでしょうね」
「それで、順二君はやる気を出したんですね?」
「兄が死んだと聞いた時は泣いてました。
でも、もうその時には目が違ってましたね。
『順一にテニスをやらせるかどうかは、お前が決めろ』と言ったんです。
あの子は即答しました。
『お兄ちゃんを世界一にする』って」
父の言葉に、記者は何かを堪えるようにしばらく上を向いていた。
「お父さん、この記事は、お父さんの口からその事を順二君に伝えるまで、止めておきます」
「ありがとうございます。どのみち、そろそろちゃんと話さなければいけないんでしょうね」
「順二君があの話を他所でもしたら、必ず事故当時の病院に事実確認され、お父さんの嘘がわかってしまう。
もうあまり時間はありませんよ」
「わかりました」
・・・3人はしばし沈黙の中で茶を啜った。
「本当の事を告げて、順二の心が折れてしまうようなことはありませんかね」
父が、記者に問うた。
「私は大丈夫だと思います」
記者は、昨日会った坂井選手の表情を思い出しながら応えた。
「お父さん、発表できるようになったら、私は記事をこんな言葉で締めたいと思うんですよ」


 "この事を知っても、坂井選手の心は揺れないだろう。
何故なら、たとえ嘘から始まったとしても、鍛錬の末に兄の精密なショットを再現するまでになった彼の左手は、今やまさしく兄の人生を受け継ぐ、二人の左手となったのだから。"
 (了)
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ハントアラウンド

 「あなたは、虎になってください」
バイト初日に俺はそう言われた。

 ゲームのテストプレイヤーになるなんてのは、全ニート男性共通の、究極の夢だ。
俺は狭き門をくぐり抜け、その究極の夢を叶えた。
ゲームのテストプレイだけで金を貰えるアルバイト。
嘘のような本当の話だ。
俺がこのバイトをゲットできた理由は、はっきりしている。
募集条件が過酷すぎたのだ。
『一ヶ月間住み込みで勤務出来る方。体力に自信のある方。休暇は不定期、一日の勤務時間は12~24時間。バイト期間中の外界との接触は禁止』
ただ、『日給3万円』。
「インシテミル」かよ、とか思いつつ、俺は応募した。
採用枠1名だったが、俺が選ばれた。
きっと、元自衛官で現無職、てのが俺一人だったに違いない。

 謎のゲーム装置とやらは滋賀県湖東地方にあった。
新幹線やらハイヤーやら乗り継いで、着いた時にはすっかり日が暮れていた。
田園風景の中に突如現れるコンクリート造りの巨大な建造物。
さすがにアーケードゲームメーカー御三家の一つSAGAだ。研究施設といっても東京ドーム0.8個分ほどの大きさがあった。(伝わりにくかったらスマン)
その中の、どこをどう歩いたか分からん先の倉庫のような部屋が俺の職場だった。
正確には、その中の、大きな卵形のカプセルの中が。

 『虎になる』と言っても、タイガーマスクとしてデビューしろというのでもなければ、落語『動物園』のようにトラの着ぐるみで檻の中を歩けというのでもない。
まあ、どちらかと言えば後者が近いが。
俺はゴーグルやグローブやブーツやマウスピース、その他十数点のサイバーなツールを体の各部に装着させられ、カプセルの中に入れられた。
係員のカウントダウンがあり、装置に電源が入ると、目の前にジャングルが広がった。

 体感シミュレーションゲームだと分かった時点で、俺の想像したゲーム内容は、まず密林でのゲリラ戦。
だが、銃も持っていなければ、視野のどこにもレーダーサイトが無い。
係員達がこのゲームの事を、『ハントアラウンド(仮称)』と呼んでいたことから、狩猟ゲームかとも思った。
最後に、自分のゲーム内での両手を見て、『虎になってもらう』が、何の比喩でもないことが分かった。
薄黄色の毛、巨大な肉球、指先に力を入れると出てくる、禍々しい爪。
俺は虎になって、ジャングルで狩りをするのだ。

 画面は異常に細密だった。
飛んでいる小さな虫から、枯れて地に積もった葉の一枚一枚まで精巧に描かれている。
俺には、実写との違いが見つけられなかった。
しかも、ゴーグルの右目と左目の視差が計算されていて、全て完璧に立体に見える。
これがゲーム内の映像と分かるのは、外が夜なのに画面の中は昼間だという所くらいだ。

 初日、俺は歩き方を教わった。
丸一日練習しなければ歩くこともままならないなんて、ゲームとしては難しすぎるんじゃないかと思ったが、係員によると、『開発中の新技術なので、全てを盛り込んで複雑になっているが、市場に出すときには遊び易さを考慮して調整を加える』のだそうだ。
ジャングルのエリア内には、様々な動物が居るようだ。
俺は近付くことさえ出来なかったが、シカやウサギ、サルなんかを見かけた。

 3日目、ようやく普通に動けるようになった俺は、出来る限り広く探索した。
ジャングルの周囲には塀があって、その塀には一定距離以上近寄れないことが分かった。きっとそこがゲームエリアの端なのだろう。

 さらに数日経ち、俺は低い姿勢で歩く事や、右下に示された嗅覚パラメータから、近くにいる獲物の匂いを見分けることが出来るようになった。
一度など、シカのような動物に、ほんの3mという所まで接近することさえ出来た。
まだ、狩りには成功していないが。

 2週目の初め、俺は初めての狩りを成功させた。
ウサギに忍び寄り、タイミングを計った一跳びで襲いかかったのだ。
俺の巨大な爪は過たず獲物を押さえ込んだ。
ウサギは、もがくことさえ出来ずに小さく震えている。
グラフィックのリアルさは、この場面に至っては吐き気を催すほどだった。
獲物を捕らえたらどうすべきか聞いていなかったので、俺はウサギを頭から喰った。
マウスピースからゴリッという触感が伝わり、視野の端に赤い飛沫が散った。
瞬間、ジャングルの映像が消え、スコア表示画面に切り替わった。
いくらリアルでも、これはゲームなのだ。俺は少しほっとした。
けど、スコア表示がスキップなしの3分間ってのは、ちと長すぎるぜ。

 それから俺は、どんどんゲームに慣れていった。
木に登れるようになり、風向きを考えるようになり、瞬時に全力疾走できるようになった。
狩れる獲物も、どんどん増えた。
初めのうちは、色んな場面で突然体が動かなくなるバグがあったが、一日のメンテで大抵解消した。
そして、そういう時が俺の唯一の『不定期休暇』だった。
休みはほとんど無かったが、俺は不満を感じなかった。
この時には既に、ジャングルでの虎としての暮らしこそが、俺の本当の暮らしだとさえ思えていたのだ。

 契約の一ヶ月が経とうというある日、俺は風の中にそれまで嗅いだことのない匂いを見出した。
それは、エリア境界の塀の近くから漂ってくる。
また新しい獲物を導入したのかも知れない。俺は慎重に匂いの源に近付いた。
丈の高い草むらを、音もなく掻き分けて忍び寄る。
エリア境界の塀の手前、少し開けた土地に俺が見つけたのは、
人間の子供だった。

 5歳くらいだろうか、黒人の子供が、落ちている木の実を拾い集めて遊んでいる。
どうすべきか?
これは減点対象となるターゲットか?
これを襲うと、人間による虎狩りイベントでも始まるのか?

 これはゲームだ。
そして俺はテストプレイヤーだ。
全ての分岐を、全てのパターンをプレイすることが仕事なのだ。

そして、正直に告白しよう。
このリアルなゲームの中で子供を襲うということが、どんな体験か、俺は興味を引かれていたのだ。
俺は、跳躍の力を後足に矯めた。



 同時刻、ケニア。
マリア・アゼッティは、姿の見えなくなった息子のジェイを探していた。
気懸かりなのは、家のすぐそばに広がる白く高い塀だった。
息子は、その中に入り込んだのではないか、と思った。

 塀は7ヶ月前に、SAGAとかいう日本の企業が作った。
脇には、窓一つ無い白塗りの建物と、巨大なパラボラアンテナ。
着工時にマリアが受けた説明では、ロボットの遠隔制御の試験場だと言う。
しかしマリアは、様々な種類の動物を積んだトラックが、厳重なゲートをくぐって塀の中に消えて行くのを見ていた。
そして最近は、血に塗れた動物の死骸が運び出されて行くのも。
『危険は無い』と言われたが、何か不吉なものを彼女は感じ続けていた。

 塀に沿って歩くと、昨夜の風のせいだろうか、根本から折れた大木が斜めに、塀にもたれて倒れているのが見つかった。
ここから中に入ったかも知れない。と、彼女は思った。
「ジェイ!ジェイ!」
叫んでみるが、返事はない。
「ジェイ!」
彼女は、斜めになった木の幹にしがみつき、よじ登ろうと藻掻いた。

「ジェイ!」

空も飛べるはず 連作短編(全)

SIDE-A

 遠くでサイレンの音がする。
この繁華な街の夕刻には、それは通常の背景雑音に過ぎず、私は顔をあげもしなかった。
やがて、周囲の人通りが慌ただしくなり、「向こうのビルが燃えてる」「人が取り残されている」などという言葉が聞こえてくるにつれ、状況が私に沁み込んできた。
そして、私は一つの決意をした。
ビルとビルの間の、ポリバケツやら木切れやらが押し込まれた路地裏に這入り、通勤カバンを、積まれたダンボールの裏に隠した。
一瞬通りに目を走らせ、誰も見ていないことを確かめて、私は
 浮いた。

 空を飛べることに気付いたのは一昨日。
子供の頃マンガや映画に影響されて時々やったように、「飛べ!」と念じて力むと、思いがけず体が浮いた。
空中で両足をばたばたさせて、自分が宙に浮いていることを確認すると、静かに床に降りた。
私が一番に思ったのは、何故、この歳になって、であった。

 人外の異能を持つ者が採るべき道は2つ。
1つはそれを公にし、時の人として、あるいは見世物として生きることを選ぶこと。
もう1つは力を秘して自らの密かな愉しみあるいは犯罪に使うこと。
もう少し若いうちならどちらの道にでも天命と信じて飛び込めただろう。
が、四十の声を聞いた私にとっては、どちらの人生も悪い冗談にしか思えない。
気軽に空中散歩と洒落込んで誰かに目撃されたりすれば、神に愛された奇跡の人と思われるにせよ、悪魔の技を盗んだ怪人と言われるにせよ、平穏な個人生活とは永遠にお別れだ。
結局私は二日間、一人の部屋で20cmほど浮き上がる以外にこの能力を使うことはなかった。

 しかし今、非日常の空気を感じて私は目覚めた。
使い道に迷っている場合ではない。
私はこのために力を授かったのだ。

 飛び立つまでは、平凡な日常と決別するつもりだった。
が、行く手の窓の一つにタオルが干してあるのを見つけて、気が変わった。
私はそれを失敬して顔の下半分を覆った。
今は正体を隠して戦うスーパーヒーローの気持ちが良く分かる。
個人生活を残しつつ超能力を揮う道があるのなら、誰だってそれを選ぶさ。

上空から見ると、燃えるビルはすぐに見つかった。
大通りから100mほど入った、40年ばかり地質年代の古い住宅密集地にそれはあった。
建坪の小さなひょろ長い雑居ビルで、5階建てくらいだったが周囲が民家なので頭二つは抜け出している。
正面には野次馬と消防関係者が集まっている。幸いまだヘリコプターの姿は無い。
私は背後からビルに接近した。

 屋上に人影が見えた。
すぐ下の階まで炎は及んでいる様子で、屋上にも煙が流れている。
私は、助けを求めて前の通りを見下ろしているその女性の背後に降り立った。
私の足が床に着くか着かないかのうちに、女性が振り返った。
「ケンジ」
と、言ったと思う。
恋人か誰かと見間違ったのだろう。
女性は若く美しく見えた。暗かったし逆光だったし、私の気持ちが昂揚していたせいもあるだろうが。
タオルで顔を覆った私を見ても、彼女は驚いていない様子だった。
もっとも、火事の現場に飛び込む時は、誰でもタオルで顔を覆うものかもしれない。今にして思えば。
「行くよ」
一声掛けて、私は彼女の腰をぐい、と抱えた。
そして、さすがに見物人の只中に降りるつもりは無かったので、ビルの横手の、丁度柵が少し途切れていた所から、宙に舞った。

 記録上、猛禽の持ち上げる事のできた獲物の最大重量は7kg程、鳥の自重と同じくらいだったと言う。
私の授かった揚力の原理がどういうものかは分からない、だが、どうやらそれは自然界の理を超える程には強力ではなかったようだ。
空中に飛び出した途端、右腕をぐい、と引っ張られた。
私は彼女を落としてしまわぬように、腕に力を込めた。
墜落していく間中彼女の重みをずしりと感じ続けていた。という事は、私の超能力は確かに落下に逆らい続けていたという事だ。
私は「浮かべ、飛べ」と念じ続けた。だが、力が及ばなかった。
民家の瓦屋根が目前に迫った。
私は辛うじて体を入れ換え、彼女を胸に庇いながら背中から落ちた。


SIDE-B

 私はついていなかった。
こんな不景気な時代に就職しなければならなかったのも、見つけた就職先がここだったのも、政権交代が起こったのも。
小さいとはいえ、旅行代理店は第一志望だったので、就職が決まった時には嬉しかった。
でも、それにしてもここは小さすぎた。
事務所は建売住宅ほどの土地に細長く立てられた雑居ビルの5階。12畳ほどしかないんじゃないかという手狭さだ。
風の強い日は小さく揺れる。大きな地震が来たらきっとぽっきりと折れてしまうだろう。
スプリンクラーも警報装置も見当たらない。きっと、消防法なんてものがまだ無かった頃の建築なんだと思う。
売上の90%までを商工会議所の慰安旅行と町議会議員の“視察”に頼っている弱小代理店だったので、最近の政治改革の波を受けて、商売ががっくり落ち込んでしまった。
社長はとにかく新しい仕事を探して来いと営業に発破をかけたが、新規参入を目指して無理なダンピングばかりするので、仕事は多くなったが全く儲からない。
お陰で今日も、社長を含め営業の面々からは次々に直帰の電話が入り、明日締め切りの書類仕事を抱えた私は一人で残業だった。
もう時計は8時を回った。
オジサンと二人きりの残業で、セクハラめいた冗談を差し向かいで聞かされるのも敵わないが、一人ぼっちの残業は気が滅入る。
窓を開けて夜風を入れてみた。
もう真っ暗な空の一方がネオンに明るく照らされている。
賑わい始めた街の喧騒が風に乗って聞こえる気がする。
はぁ、早く終わらせて帰りに一杯だけビールを飲もう。
こんな時でも『仕事なんて放っておいて』とは思わない自分が可愛い、と思った。
デスクに戻ると、ふと、香ばしいような、焦げ臭いような匂いがした。
このビルの一階は中華料理屋だ。オジサン達は『社員食堂』と呼んで通っているが、私はなんだか出社するだけで服に匂いがつきそうで嫌だった。
夕飯時で客も多いのだろうが、ここまで匂ってくるなんて、どういうことだろう。
帰りに階段を使うのも嫌になるなあ、等と思いつつ、会社のドアを開けてみた。

 ドアの向こうは真っ白だった。
え、と思った瞬間、白い壁が押し寄せてきた。
目に、鼻に、痛みが走る。
私はドアを閉め直す事もできずに部屋の奥に駆け戻った。
火事だ、火事だ。
頭の中をその言葉だけが駆け巡る。
一瞬のうちに、部屋が暗くなっている。濃密な煙が天井の方から部屋を埋め尽くしてゆく。
私は、わが社の『喫煙コーナー』、ベランダに出た。
煙からは逃れたが、きな臭い匂いは相変わらず鼻をつく。
どうやら2階か3階にまで火が上がってきているようだ。
私は、ベランダの隅にある細い鉄の階段を使って屋上に登った。
一息ついて見下ろすと、既に見物人たちが集まっているのが見えた。
下の階の窓から炎が吹き出している。
きっともうすぐここまで火が上がってくる。それとも、燃えて脆くなった鉄骨が折れて、このビルがぽっきりと折れてしまうのが先か。
振り返ると、貯水槽のある狭い屋上にはとてもヘリコプターなど着地できないとわかった。
はしご車は前の狭い路地に入ってこれるだろうか。
私は、今にも足元が崩れ落ちるのではないかという思いに震えながら、ただ立ち尽くしていた。

 何かが見えたわけじゃない。
ただ、後ろから風が吹いた気がして振り返った。
そこに、男の人が、スーツを着て顔にタオルを巻いたオジサンが、立っていた。
このタオルで煙を避けて階段を登ってきたのだろうか。
でも、その時私にはオジサンが、空からこの屋上に降り立ったものだと思えた。
「天使…」
思わずつぶやいた。
「行くぞ」
オジサンに抱えられるようにして屋上から飛び出したときも、私は当然空が飛べると信じていた。
ピーターパンと手を繋いだ子供達のように、そのままこのオジサンと空に昇れると思った。

 私達は落ちた。
隣の民家の屋根の上に。
でも、落ちる間中、私はオジサンの腕に支えられているのを感じた。
ただ一緒に落ちていたのなら、そんなのはおかしい。
やっぱりオジサンは飛べたんだ。
もしかしたら、私がちょっとだけ重すぎたのかも。
それとも、オジサンは半分だけしか天使じゃなかったのかも。

 3階分くらい落ちたのに、私に怪我らしい怪我はなかった。
オジサンは救急車で運ばれて、そのまま入院したらしい。


SIDE-C

 私の超能力は思ったより限られたものだったようで、お陰で、事件の後も何も露見することはなかった。
私は肋骨を2本折り、後頭部に裂傷を負い、2日間だけ入院することとなった。
酔った上で無謀な英雄気取りを行ったおっちょこちょい。私はそう評価され、お褒めもお叱りも受けずに済んだ。
私の今の心配は、この事で会社で変なあだ名を付けられないかという事と、路地裏に隠したままの鞄の安否だ。

 病室のドアの開く音がした。
カーテンの外から「岸田さん」と看護婦が声を掛ける。
「ご面会ですよ」
カーテンが引き開けられ、そこに見知らぬ女性が立っていた。
いや、見覚えはある。
もしかすると…屋上の彼女だ。
「安藤です」
彼女は言った。
「岸田さんって言うんですね。助けてくださって、ありがとうございました」
「あ、いや…」
飛べたから、つい、とは言えない。
私には何も言う事が無かった。
彼女の方もそうだろう。何の接点も無い二人なのだ。
しばらく沈黙があった。

 サイドテーブルの上の食べ終わった食器を持って、看護婦がどこかに歩み去った。
安藤と名乗った屋上の彼女が、私の枕元に顔を寄せて来た。
さっきまでの大人の態度と違い、目をきらきら見開いて私を真っ直ぐ見つめてくる。
「岸田さんって、天使なんですよね?」
彼女に私がどう見えていたかは分からない。
だが、私には彼女が天使に見えた。

猫アンテナ

 その日僕は、早朝に寄らねばならない所があった。
そのため家を早く出たのだが、用事が思いがけず短時間で終わったので30分ほど早く会社に着きそうになった。
僕は、最寄り駅駅前のMr.ドーナツでコーヒーを飲んで時間を潰すことにした。
会社の最寄り駅である東郷は、近所に元女子校だった高校があるため、朝のこのくらいの時間には、女子高生の登校姿が多数観察できる。
僕は、強調しておくが決してそれが目当てではなく、単に昔から街並みや人の流れを見ながらコーヒーを飲むのが好きだったため、窓に向いた眺めのよい席に陣取った。

 決してそれが目的ではないが見るものが女子高生以外に無いので仕方なく、彼女等が待ち合わせ笑い合いそぞろ歩く姿にらき☆すたの声を脳内アフレコしながらコーヒーとドーナツを戴くという伝統的なイングリッシュ・ブレクファストを楽しんでいると、通勤のサラリーマンの足元を縫うようにゆっくり動く小さな影に気付いた。

 猫だ。
黒い、若猫だった。
見たところ推定年齢一歳くらい。
人混み、とまでは言わないが、それなりに居る通行人に全く構わず、悠然とのんびりの間くらいの歩調で駅前の花壇へと向かっていた。
花壇の縁には女子高生三人組が腰掛けて談笑している。
が、猫は彼女たちから真横に当たるので、気付く様子はない。

 と、三人組のうちの一人が、不意に首を回して猫の方を見た。
背の高い、長い黒髪の女の子だ。
けいおん!でいうと澪だ。もっとも僕は女子高生とかアニメとか興味がないのでよく分からないのだが。
 女の子は、1.5秒ほど猫を観察したかと思うと、周りを誘うでもなく一人立ち上がり、猫の方に近づいた。
猫の2mほど手前でそっと立ち止まり、そのまま静かに後を尾ける。
そして、猫が花壇を回り込み、丁度彼女等の陣取る反対側に飛び乗ってイネ科植物を噛み始めたのを確認すると、再び皆の居る場所へ戻って行った。
少女は猫アンテナを持っていた。

 僕はなんだか感動した。
僕も、猫を見つけるとよくああいうことをする。
猫の行動が確認できるまで観察し、納得がいくとまた自分の作業に戻るのだ。
間違いなく猫が好きなのだが、それ故にこそ彼らを驚かせたり煩わせたりしたくない。
こういう気持ちを、僕は、物心つく前から猫と暮らしてきたせいで身につけていた。
そして、それは他の『猫が好き』と言う人達とは共有できないものだと思っていた。
『猫好き』は皆、猫を見かけるや走り寄り、彼らが驚き固まり、あるいは逃走体勢に入るのも構わず、いきなり手を彼らの鼻先に突き出してはその心胆を寒からしめるを厭わぬ輩だと思っていたのだ。
 が、居たのだ。
単に猫の生業を確認をしたい、という人間が。僕の他にも。

 日本に、部屋所属の相撲取りは700人程居るそうだ。
しかるに、僕は相撲取りを人生で二度ほどしか見かけたことがない。
ということは、人生で一度しか見たことがない『猫の行動を確認する人種』も、その半分の350人は居るに違いない。

 僕は空想する。
北新地の金曜の夜。
酔って互いに肩を組み、狭い路地いっぱいに広がってよろよろ歩くサラリーマンの一群。
その中の一人だけ、通り過ぎる脇道のビールケースの上の猫に気づく。
猫は向かいのビルの壁の一点を見ている様子。
そのサラリーマンは、酔いどれの隊列から外れて猫の視線の先を追う。
そこには大振りのヤモリが一匹張り付いていた。
彼はそれを確認すると、耳だけこっちに向けて軽く警戒している猫に向かって『じゃあ』と無言で挨拶し、小走りに戦線に復帰する。

 あるいは
高校女子バレー地区予選。
たまたまその年頑張り屋さんがメンバーに揃った、毎年初戦敗退の公立高。強豪校相手に善戦するも、フルセットの試合に皆ボロボロの状態。
長引く試合に体育館の窓には西日が映え、度々両サイドの床の汗をモップで拭き取る中断が入る。
ついにマッチポイントというところで、またも入った清掃の最中、公立高のセッターが、曇りガラスの窓に映った小さな影に気付く。
体育館の外の手すりを、一匹の猫が歩いているのだ。
館内の教師もコーチも応援の観衆も、もちろん試合中の選手の誰もそんなことに気付かぬ中、少女は夕日にくっきりと浮かび上がった、猫の手足の動きに見入る。
『そうだ、試合に集中しなきゃ』
と、彼女がネットに目を向けた瞬間、同じように窓の方から視線を戻した顔があった。
相手チームのアタッカーだ。
一瞬、二人の目が合い、小さく互いの唇が笑った。

 猫アンテナを持つ者同士は、決して声を掛け合わない。
互いを同類と識別したら、目で挨拶を交わすだけだ。
そこも猫流。

 僕が束の間の空想から還ると、駅前の少女たちは待ち合わせメンバーが揃ったらしく、皆で学校へと歩き始めていた。
猫アンテナの少女は、花壇を通り過ぎるとき、隣の女の子にほら、と、黒猫を指し示した。
二人は1.5秒ほど花壇で毛繕いする猫を眺め、歩み去った。

短命な蛍光灯 -柾木祐介第一の事件-

 「ねえ、あたしの会社でちょっとしたミステリーがあるんだけど。聞いてくれる?」
「んん?」
真美ちゃんは、大学時代からの友達。今は中堅商社の総務課にいる。
「何々?」
木谷が食いつく。これも大学時代以来のダチだ。えっと、今は何をしてるって言ったか。よく職を変えるので覚えていない。あるいは僕がこいつに興味無いせいか。
「あのね、会社の中で、ある場所の蛍光灯ばかりがよく切れるの。なんでかな」
「たまたまだろ」
木谷が例によって適当に即答する。
「よく切れるって、どのくらい?」
「えっとね。2年間で4回以上」
「ふーん。それは確かに多い気がする」
「なんか、電圧がおかしいとかじゃないか?」
「それがさ、総務でもおかしいって話題になって、ていうかあたしが一人で騒いでたんだけど、一度検査してもらったの。電気屋さんに。でも、何も異常無いって」
「ふーむ」
「なあなあ、その蛍光灯の下で自殺した社員とか居たんじゃない?コンセントから引いた電線を、こう両手に持って・・・。その時さ、頭の上の蛍光灯が、なんかショートの影響でばりーん、と砕け散って、それ以来そこの蛍光灯は・・・」
「きゃーっ」
木谷のバカ話につきあって、真美ちゃんは怖がってみせる。
・・・と思ったが、まだ目を瞑って耳を塞いでいる。どうやらマジらしい。
「真美ちゃん、会社で、そこ以外の蛍光灯の切れる頻度はどれくらいなの?」
「え?」
ようやく、顔を上げた。
「そうねぇ・・・。あれ?」
「なに?」
「あたし、そこ以外の蛍光灯が切れてるの見たこと無いわ」
「ふーん・・・」
これは、もしかすると・・・
「お、何だ?なんか思いついたか?名探偵」
木谷の発言は当然無視。
「真美ちゃんの会社って、ワンフロアだっけ?自社ビル?」
「自社ビルなんてとんでもないよお。ワンフロアワンフロア」
手を顔の前でブンブン振って謙遜を表現。可愛い。このコ、女子に人気無かったなぁ、とか思い出す。
「天井の蛍光灯の長さって、全部一緒?」
「うん。どれも全部同じ蛍光灯だよ」
「よく切れる蛍光灯の下にいる人って、ちょっと頼りなくない?」
「え?下の人?」
真美ちゃんはちょっと考えて、
「頼りないどころか、偉い人だよ」
と答える。
「偉い人かあ・・・」
「お?どうやら思惑が外れたな」
木谷は飽くまで無視。
「偉い人って、役職は?年齢は?」
「年齢は・・・幾つなんだろう、とにかくおじいちゃん。でも、威張ってるよ。確かね、相談役、だったかな。どっかから天下りで来たの」
ふむふむ、そっちか。どうやら筋書きが見えた。
「それは、会社でいっつも新聞ばかり読んでたりする人だね?」
「それ以前に、すぐ外に出かけるから、あまり社内にいないのよね」
「へー、営業?」
木谷が呑気なことを言う。
「出ていく時は大抵競馬新聞持ってるよ」
「さて、ぼちぼち謎は解けたな」
「え?何で?・・・さてはお前か?」
何がだ。
「ウソ!わかっちゃったの?」
木谷は、分かっててバカなこと言ってる可能性も高いが、どうやら真美ちゃんは本気だ。
「あのさ、真美ちゃん。ある朝会社で仕事始めようとして、何だか薄暗いことに気付く。見上げると蛍光灯が切れている。さあ、君ならどうする?」
「総務に、切れてます、って言いに行く」
「でも、もう仕事始まるのに、総務がすぐ動いてくれるかどうか分からない。言いに行くのも面倒くさい。見ると、いつもゆっくり重役出勤で、ろくに仕事もしない人の席の上の蛍光灯は、明るく灯いている」
「あ!」
真美ちゃん、ようやく気付いた。
「交換しちゃうんだ、皆。自分で」
どこか右上の方に浮かんでいるらしい何かの映像を見ている感じでしばし固まり、それから何やら納得したらしく、うんうん、と一人頷く。
「それで、あそこの蛍光灯ばっかり切れてるんだ。すごーい、柾木君。名探偵!」
真美ちゃんは両手を口の前で小さくパチパチ打ち合わせる。
「すごーい!会社の七不思議一個減っちゃった!」
これは木谷、五月蠅え。
「総務課でも、真美ちゃん以外は皆知ってたんじゃないかな。これは、まあ、純粋すぎる真美ちゃんならではの『謎』だったんだよ」
「ええーっ」
両頬に軽く握った手を当てて困惑する真美ちゃん。
「こうして、名探偵柾木祐介第一の事件は、つつがなく解決した。しかし彼は、この事件の裏にもう一つ、大きな策略が潜んでいることには気付いていなかったのだ!」
また木谷が馬鹿な事を言う。
何故だか、あの温和な真美ちゃんが木谷を睨みつけていた。

ほんのり秋色 ~このタイトルで書け~

 「そしたらさ、佐伯さんがさ、『ほんのり秋色、大人のリップ』って、どっかで聞いたことある、ありがちだ、って言ってさ」
「ふんふん、まあ、そう言われればそうだね」

 彼女は、クレボウ化粧品の若年層向けブランド、『コスミア』の宣伝部にいる。
秋の新作宣伝会議の流れがなにやら気に食わなかったらしく、土曜の午前10時にドーナツをぱくつきながら僕に愚痴をこぼしているのだ。
「そう言われればそうなの。それはそうなんだけど、佐伯さんの案っていうのが『秋の装い、愁色(うれいろ)リップ』なのよ」
「へー。で、何かダメなの?それ」
僕が訊くと、彼女は『信じられない』という意味で目を見開いてみせる。
「うちは若いコ向けなのよ。
 今回の商品は、赤をベースに江戸時代の紅みたいに反射光が黄色に見えるっていうモノなんだけど、
 その黄色を紅葉に見立てる意味と、色味が複雑でちょっとシックな味わいになってる所を『秋』に絡めてキャンペーン張るわけ。
 ベース色はライトピンクからディープレッドまであるんだけど、私としては当然売れ筋は明るい赤ベースだと思うわけね。若いコ向けだし。
 だから、CMなら10代の子にチェックのキュロットパンツ穿かせてチェックのベレー被らせて『ちょっぴり大人、ちょっぴりメランコリック』っていうノリにしたいの。
 でも『愁色(うれいろ)リップ』とか言っちゃったら20代半ばの大人の魅力もある女優使って、黒のワンピースとかでシックに決めるイメージになっちゃうでしょう?
 当然リップのベース色も深い紅。
 そんなの高級ブランドに負けるわよ。
 今回のキャンペーンの狙いは新規客層の獲得なんかじゃなくて、あくまでうちに興味を持ってくれてる層への、新色の提案なんだから!」
「…んーと。それを会議の席で言えばいいんじゃないか?」
僕はとりあえず思ったままを口にした。
「ダメよ!あたしの『ほんのり秋色』が、ありがちでインパクトに乏しいのはホントなんだから!」
彼女らしい強気な口調での弱気発言。

 しばらく沈黙が続いた。
これは、僕が何か提案しなくてはならないのだろうか?
もしかすると、佐伯部長の案に反論するための『ほんのり秋色』に代わるコピーを考えて欲しい、と、彼女は僕に助けを求めているのかも知れない。
そう思うと、素直に『何かいいコピー考えてちょうだい』と言えない彼女のプライドの高さが可愛く思えてきた。
よし、ここは一丁冴えたアイディアをひねり出してやろうじゃないか。僕は頭をふり絞った。
「若いコ向けを意識した提案だよね?
 じゃあ、分かりやすく『ちょっぴり秋色』とか『ちょびっと大人の秋』とか、いいんじゃない?」
彼女は、目を輝かせて「それよ!」
とは言わなかった。
コーヒーカップの中でスプーンを無為に動かしながら、
「『ちょっぴり』とか『ちょびっと』みたいな弾む語感は春や初夏のキャンペーン向きなの。
 若いコ向けとは言っても、落ち着いた秋らしい雰囲気を出せないと、秋向けキャンペーンの意味ないわ」
と、切り捨てた。

あれ、おかしいな。ちょっと調子が悪いようだ。
しかし、助けを求めている彼女を見捨てるわけにはいかない。
僕は考えた。
部長の提案『愁色(うれいろ)リップ』は、『愁い』っていう、意味も字面も秋を思わせるキーワードを盛り込んだ秀逸な言葉だ。
でも、『愁い』って言葉自体ちょっと大人っぽ過ぎるのと、『うれいろ』という読みも『熟れ色』を思わせて古臭い色香を放ち過ぎているのが難点だ。
では、『愁い』をもっと上手く使う手はないか?
『愁』は、秋の下に心…。

「『女心と秋のリップ』てのは?
 こう、『秋』って字の下に『心』と書いて『愁』だよって事を匂わせつつ、佐伯案より軽快な響きで…」
「匂ってないでしょ。その言葉から『愁』って言葉を連想する方が珍しいでしょ。
 しかも、『女心』ってフレーズがもう古臭いわ」
うおっ!
ズバっと斬られた。

「じゃあ、じゃあねー。…『秋色リップでほんのり大人』!」
「うわ・・・」

「な、何、うわって。黙り込まないでくれよ」
「ほとんど私の案を並べ替えただけなのに、どうしてそんなロリコン臭さが出るわけ?
 君が言うから?持って生まれたキャラクター?」
「俺はロリコンキャラを持って生まれた覚えないから。成長過程で獲得してもいないから!」
「なんか、面白いからもっと言ってみて」
「え?えっと。
 『娘心と秋のリップ』」
「『娘』って…」
「『秋の心(ハート)は愁い色』」
「なんか説明しはじめたし」
「『愁いは秋の下心』」
「説明的な上に、なに?シモネタ?」
「『大人のリップで秋にチュッ!』」
「うげっ」
言ったまま彼女はテーブルに突っ伏した。

 しばらくして顔を上げると。彼女は晴れ晴れとした笑顔で言った。
「ありがとう。なんか、気、遣わせちゃって」
良くわからないが、
「ああ、気にするなよ」
と、応じておく。
「なんだか、お陰で気が楽になったわ。
 もうちょっと考えてみる。で、ダメだったら『ほんのり秋色』で押してみるわ。
 そしたら、他の人からも新しい意見出るかもしれないし」
「うん」
彼女はそう言うと、バッグを肩に掛け立ち上がった。
そういえば、もうそろそろ目当ての映画が始まる時間だっけ。
「ねえ、私、なんかやる気出てきちゃった。今日の午後いっぱい、図書館で頑張ってみたいんだけど、
 いいかな?」
ええっ!?
「ああ、もちろん。がんばって」
長所の沢山ある僕だけど、中でも『どんな時でも好きな子の前では爽やかに笑って頷ける』というのは一番良い所だと自負している。
「ほんと、君には感謝してるんだ。私が煮詰まっちゃってる時には馬鹿な事言って励ましてくれるし」
馬鹿な事!?
「ほんとに、ありがとうね!」
弾むようなステップで、彼女は店を出て行った。

 元気が出たようで本当に良かった。
そして、僕は会社の宣伝部で働いてなくて本当に良かった、らしい。
しばらく一人でコーヒーを啜っていると、ふと、今日の彼女の唇の事を思い出した。
時々黄緑色に輝いて見えたような。
ああ、あれがその新色リップだったのか。
もしかすると、彼女が会社で開発中の秋色リップの話をし始めたのは、その試作品を付けている事に気付かせて感想を聞きたかったからかも知れないな。
いや、仕事がらみで感想を聞きたいなら、彼女はそんな回りくどい事はしないだろう。真正面から『このリップなんだけど、どんな感じに見える?』と訊いてくるタイプだ。
だったら?
彼女は、単に今日のデートで僕に見せようと新作リップでお洒落をしていて、『カワイイね』と褒めてもらいたくて、でも、気付いてもらえなくて、気付かせようとそのリップの仕事の話をして、そしたら悩んでると思われて相談に乗られて、そのうち自分も仕事のこと考え出しちゃって、デートそっちのけで仕事を始めちゃった……
と、いうことか?
まさか、そんな事があり得るか?
全て僕が悪かったのか?


「ま、いいか」
窓の外は、少し物憂げな秋の風景。
僕は、コーヒーのお代わりを頼んだ。

ランプ

 久しぶりに残業で遅くなった帰り道、ふとした気まぐれで月上良一はいつもと違う細い裏道から駅に向かった。
ふとした気まぐれと言っても、若いうちにありがちな活発な好奇心の引き起こす軽い逸脱、といった類ではない。
煮詰まって、一杯飲んで帰りたい処だがそれ程の小遣いも貰っていない妻子持ち中年男の、それは無意識に選択した精一杯の冒険にして反抗だった。
とは言え、裏路地一本入ったところでそうそう面白い事件があるわけもない。
であるから、薄汚れた飲食店の看板と看板の間に、相応しからぬ骨董の鈍色の輝きを見た時、彼がその足を止めたのも、無理からぬ事であった。

 その骨董店は、幾重にも背景から浮いていた。
飲み屋街の寂れた裏通りにあるのも異様なら、そんな場所にある骨董店が、質流れやリサイクル品ではなく、本物の骨董を扱っているのもおかしかった。
そして、夜9時になんなんとするこの時刻に、店に灯りが点っている事も。

 『まるでダーク・ファンタジーの冒頭シーンだな』良一は思った。
日頃なら、買い物の途中でこんな店を見つけても、決して足を踏み入れなかっただろう。
しかし、今の彼は無意識の冒険者であった。
そう迷う事もなく、彼は店の戸を押した。

 ティーセットや人形、オルゴール等、様々な骨董品が棚の上に無秩序に並べられている。
どうやら、西洋骨董が中心らしい。
年代物が多いようだったが、良一にはどの程度の品か、全く分からない。
店内に人の姿は無かった。
良一は、棚の品を眺め歩いた。

 魔法のランプがあった。

 いや、それが何なのか良一に確信があったわけではない。
そういった形のものを彼は『アラジンと魔法のランプ』の絵本か、ホテルのレストランのカレーでしか見たことがなかったのだ。
カレールウを入れるには少し小振りに見えたので、彼はそれをペルシャのランプと判断した。
銀製だと思うのだが、よく見ると表面に薄く雲がかかったように輝きが鈍い。
人の気配が無いのを確かめて、彼はそっとランプを拭いてみた。
ランプの表面が一部、美しい銀光を放つ。
「魔神は出て来ないな、やっぱり」
呟きながらのぞき込むと、ランプの中に人影が動いた。
ランプの精?いや、反射だ。
良一は振り返った。
いつのまにか、背後に人が立っていた。
ニット帽に毛糸のチョッキを羽織った、小柄な老人だ。
「それが気に入りなすったかい」
微笑むでもなく、じっと彼の眼を見つめながら訊いてくる。
格好はいかにも骨董店の主人だったが、それにしては眼光が鋭すぎる。
「い、いや。願い事でも叶うかな、なんて思って…」
迫力に押されて、良一はそんなことを言っていた。
「願い事か…」
老人が、顔を近づける。
「願い事は叶うかも知れん。じゃがそれは、あんたが本当に願っている事じゃ。『願っていると思っている』事じゃあない」
「ど、どういう意味です?」
「人は、一番深いところで望んでいることしか、実現できないんじゃ」
「僕は、一番深いところで何を望んでいると言うんですか?」
「さあ、それはわしには分からん」
「このランプを買えば、その望みが叶うんですか?」
「それは、あんた次第じゃ」
僕が心の奥底で望んでいる事?良一は考えた。
絶大な力か、この世界の滅亡か、それとも、自らの消滅か…。
「お、お幾らですか?」
知らず、そう訊いていた。

 こういう物語なら幾つも読んだ事がある、と、良一は思った。
欲望を掻き立てられて買い物をした客は、自らの欲望に溺れ皮肉な結末を迎える。そして翌日には、店は跡形も無く通りから消えているのだ。
そんな物語を予感しながら、良一はそれに飛び込む決心をしていた。
平凡な幸せを維持するだけの事に疲れ果て、良一は現実に倦んでいたのだ。
この数十年の人生で、彼は自分の凡庸さを思い知っていた。
神も悪魔も、彼の人生には関心を払わなかった。いや、それ以前に、この世界に神や悪魔などという超自然的なものは居ないという事も、彼は失望と共に学んでいた。
人は凡て、当たり前に苦労し、当たり前に死んでいくだけなのだ。
そう思っていた彼には、悪魔に魂を喰われて迎える最期とは、自尊心を大いに満足させる甘美な夢に思えた。
そんな劇的な終焉を迎えられるなら、人生も捨てたモンじゃない。

 「5万円」
店主が言った。
それは、ちょうど良一の財布の中にあった、今月の小遣い有りっ丈と同じであった。

 良一は、ランプを家族に見つからぬように持ち帰り、部屋の引き出しの奥に隠した。
翌日には貴金属を磨く布を買ってきて、ピカピカになるまで磨きあげた。
決して、願い事を口にしたりはしなかった。
どのみち、それは呪われた品で、自分自身気付かなかったような残酷で皮肉な願いを、それのみを叶えるものだと、固く信じていたからだ。
一週間が過ぎた。
何も起こらなかった。

 もう一度あの場所に行くと、店は変わらずそこにあった。
この前より時間が早かったため、夕暮れの空の下のその店は、神秘の薄皮を一枚剥いだように色褪せ、乾いて見えた。
良一は再びドアを押した。
今度は、中に店主の姿があった。
そしてもう一人。
チンピラめいたアロハシャツの男が、店主の老人と話し込んでいた。
二人は、入ってきた良一に気づくと話を止めた。
店主が男に目配せをし、男はするすると店の隅に退いた。

 「またいらっしゃいましたね」
相変わらず鋭い眼で店主が言う。
良一は、店の中に他の客が居ると思うと気恥ずかしかったが、老人に身を寄せて囁いた。
「何も変わらなかったぞ」
「はい?」
老人が、分からぬ振りで聞き返す。
「ランプを買っても、何も変わらなかったと言ってるんだ」
押し殺した声ながらも、良一の言葉にいらだちが滲んだ。
老人は、鋭い一瞥で良一の次の言葉を止めると、言った。
「何が不満なんじゃ。わしはお前の生活が変わることなんぞ保証しとらん。ただ、心の底から願っている事があれば、叶うだろうと言ったのだ」
「お、同じ事じゃないか」
「もし、お前さんの暮らしが、ランプを手に入れる前と全く変わらんというなら、それはお前さんがその暮らしを望んでいたという事じゃ」
「え…。な、何を…」
「何も決定的なことをせず、ずぶずぶと退屈な日常の中で腐っていくように日々を送るのは、実はお前が望んでいたからじゃないかね?
 何かを変えたくてした事が、飛び込んだ骨董屋でランプを買ってみるだけなどという男に、それ以上の何が降ってくると思ってたんじゃね」
「…」
良一は、何も言えなかった。
そのまま2、3歩後ずさると、暗闇を歩むようにドアを手探り、よろけながら夕暮れの街へ逃れ出た。



 「おいおい、おやっさん。今の誰だよ」
店の隅で成り行きを見守っていた男が訊いた。
「おう、勿論、客じゃ」
鋭い目つきは同じだが、先刻までとうってかわって乱暴な早口で老人が答える。
「勘弁してくれよ、万が一にもここが流行りだしちゃあ、ブツの取引に使えなくなるじゃねえか」
「バカ野郎。だからって、来た客を全員追っ払ってたら、その方が怪しまれらあ。つまらんものを高く売る店だって評判は、立ってくれた方がいいんだよ」
若い男は、それでもまだ納得できないようだった。
「でも今の客、何だか妙に入れ込んでやがったぜ」
「ああ、ありゃあ」
老人は、吹き出すのを堪えるように顔を歪ませた。
「なにか、大冒険でもするみたいな顔で店に入って来やがるからよ、つい、からかっちまった」
「何だよ、そりゃ」
訳が分からないというチンピラの表情に耐えきれなくなったのか、老人は弾けるように笑いだした。

老人の笑い声は、闇の迫る通りまで聞こえていた。

マンモスが食べたい ~タイトル指定作文~

 「マンモス」
その声は、入り口に近いカウンター席から聞こえた。
カウンターの中の大将がそれに視線と頷きで応えている。
「じゃあ、俺もマンモス」
隣の男が言う。
やはりはっきりそう聞こえた。
マンモス、という注文だ。

 家のごく近所にあるのに、一度も入ったことがない。いつも通る道にあるのに、入ろうと思ったことがない。そんな店って、あるよね。
私にとって、会社のすぐ傍にある創作家庭料理の店『かっちゃん』が丁度そういう店だった。
 ある秋の夜、確かに残業でお腹は空いていたけれど、今まで一人で居酒屋だの小料理屋だのに行ったことがない私がふらふらとその店の前に惹き寄せられたのは、決して私が『オヒトリサマ』を恐れぬまでに女性として成熟したとかそういうことではなく、気の迷いというか、魔が差したというか、そういう、季節の変わり目にありがちな不安定な心理状態の為せる技だったのだと思う。

 まず戸の隙間からそっと中の様子を窺うという私の計画は、ほんの5cm開いたところで掛けられた威勢の良すぎる「いらっしゃい!」の声に頓挫した。
歓迎の声と笑顔に絡めとられ、私は心の準備のできぬまま店内へとよろけ込んだ。

 平日だったが、夕食時とあって店内はそれなりに混んでいた。
私は、店員に導かれるまま、奥のカウンター席に着いた。
 何も考えずに来てしまったが、お酒の弱い私は『とりあえずビール』が使えない。
カウンターの中で白い服を着ている大将らしい人物も、洗い物を下げたり料理をテーブルに運んだりしている若者も、具体的には私を急かすような行動を何一つしていないのだけれど、私はとにかく何か注文しなければと焦った。
そして結局、「あの、と、鶏の唐揚げをください」と言っていた。
せっかく滅多に来ない創作家庭料理店なんて処に来たのに、どこの居酒屋チェーンにもあるような物を頼んでしまった。
なにかもっとそれらしい物を、『茄子としらすのナントカ』だか『ナントカの田舎風白和え』だかを頼むつもりだったのに。
とりあえず唐揚げで稼いだ時間を使って、次に注文する面白げな物を決めなくては。
 メニューに目を走らせるが、特に目を引く物がない。
カウンター内のボードに「本日の特別メニュー」がないか、壁に怪しげな料理名を書いた短冊がぶら下がってないか、私はきょろきょろと辺りを見回した。

 そこに、聞こえたのだ。
「マンモス」
 その注文はごく普通に、聞き返されることもなく、一発で店員に通じたようだった。
マンモス?
どうやら見落としがあったようだ。私は再び、メニュー、カウンター内、店の壁をチェックした。
『マンモス』という品は見当たらない。
『ナントカのマンモス風』も、『マンモスナントカうどん』も、『マンモ酢』なんてものもない。
隠しメニューか?
私は運ばれてきた鶏の唐揚げを、小さく前歯で齧りとっては食べながら、注文したサラリーマンたちにどんな物が運ばれてくるのか見守った。
 やがて、カウンター越しに大将が客に手渡したのは、黒い大鉢だった。
中に何が入っているのか全く分からない。
私は思わず舌打ちをし、隣のおじさんに不審がられた。
注文したのが私より店の奥側の客なら、お手洗いに行く道すがらごく自然に鉢の中を覗き込めもするのだが、入り口の近くの客の料理を盗み見しに行く良い口実が、私には思い浮かばなかった。

 こうなったら、最後の手段だ。
私は店員さんに手を振った。
「マンモス下さい」

「は?」

ええー?!

店員は、あからさまに困惑の表情を浮かべて突っ立っている。
さっきははっきり「マンモス」って言われて、一発で飲み込んでたじゃないよ!
「すみません、えっと、ご注文、もう一度お願いします」
「マンモスです」
私も意地だ。
「マンモ…?」
あくまで、見当もつかないといった表情の店員。
「マンモス、マンモス……ナンコツください」
妥協してしまった。
それでも、私はもしや「ナンコツ」でさっきの鉢料理が出てくるんじゃないか、私が聞き違えてただけで、さっきの客の注文は『ナンコツ』だったのでは、と期待を持っていた。

 運ばれてきたのは、平皿に盛られた軟骨の唐揚げだった。


 「でね、店員に『鶏の唐揚げ系が大好きな客なんだな』と思われつつ、飲み物も無しに唐揚げと軟骨を平らげた私は、帰りがけに入り口付近の客のマンモスの鉢を覗いたわけよ」
「うんうん、そしたら?なんだったんすか?」
翌日の会社で、後輩の佐藤君にその話をしたら、思いのほか食いついてきた。
「もう空っぽだったの」
「えー。何だ、種明かし無しですかぁ。気になるじゃないですかぁ!」
「私だって気になるわよ。だから、今度リベンジ狙ってるの」
「へえ、もう一度行くんすか、じゃあ、僕も連れてって下さいよ」
「うん、いいわよ。そうだ、次ぎ行ってまた店員がしらばっくれたら、腕ずくで吐かしちゃってよ」
「はい、任せといて下さい!」
災い転じて福となす。なんだか、自然な流れで佐藤君との飲み会がセッティングできちゃったわ。
私はそんなことを思っていた。


 それが一週間前。
翌日から佐藤君は、無断欠勤を続けている。
誰も理由を聞いた者はなく、誰にも何の連絡もない。
心当たりのある者はいないか、と課長が皆に聞いて回っていたけど、私は何も言わなかった。

 私は想像する。
あの日、佐藤君はやっぱりマンモスが気になって、帰りに一人で『かっちゃん』に寄ったのかも知れない。
そして、マンモスの事を店員にしつこく聞き続けたのかも知れない。
『マンモス』の秘密を守るためには、最早彼の存在を抹消するほかない、と店員が決意するほどしつこく…。

 でも、現実には、小料理屋のメニュー程度の事で人が一人が消されるなんてことがあるわけがない。
あんな風に自然に聞こえてきた『マンモス』が、そんな危険な情報であるわけがない。
だから、私があれ以来二度と『かっちゃん』に近づかず、佐藤君の失踪について何も言わないのは、失った淡い恋の思い出に胸を痛めるのが辛いからであって、決して、知ってはならない秘密に近付きすぎたのではないかという恐怖、なんて理由からではないのだ。

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